細川 幽斎。 戦国大名・細川幽斎は関ヶ原の戦いの功労者?生涯や評価・本能寺の変のときの行動も解説 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

幽斎 細川

文武に秀でた細川家の当主たち 本能寺の変で隠居した幽斎に替わり当主となったのが長男・である。

また、弟のとも不仲であった。
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また、今回ご紹介した幽斎関連施設以外にも、舞鶴市には多くの観光スポットがあります。 は幽斎の人物像をご紹介しましたが、幽斎を語る上で欠かすことができない強烈なエピソードが西軍1万5000人vs幽斎軍500人で戦った「田辺籠城戦」です。

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次ページに続きます】. 田辺城の戦い 慶長年間に入り秀吉が薨去すると、幽斎はかねてより親交のあったに接近し、嫡男の忠興も慶長5年(1600年)に会津征伐に参加するなど、父子共々親徳川の立場を打ち出していた。
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しかし、講義の途中で籠城戦が始まり中断します。

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長岡藤孝を名乗り信長に仕える 藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。 (1979年、日本映画)演:• 特に剣術では柳生宗矩に入門し、柳生新陰流の代表的な剣士となった。
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織田軍において、藤孝は明智光秀の与力(補佐)として丹波攻めに従事、丹後12万石をあたえられて宮津(京都府宮津市)に築城した。 そしてついに11月2日、「古今和歌集聞書」の清書本に幽斎の奥書と花押を得たのです。 1546年、義晴の嫡子・菊幢丸と同日に元服、菊幢丸は義藤(のち義輝)と名のり、翌日には13代将軍に就任する。

その後、12代将軍義晴と近衛の姫の間に、のちの13代将軍義輝(よしてる)、のちの15代将軍義昭(よしあき)が生まれる。
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丹後の禅宗寺院では珍しく七堂伽藍が揃う建築様式 三門からは田辺城(黄矢印)を見下ろすことができ、籠城戦の様子をこちらから見ていたことがうかがえます。

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幽斎が籠った丹後田辺城(舞鶴城) 5年()6月、忠興が家康のに丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男のと共に500に満たない手勢で丹後を守る。 田辺城の門を移築した山門とされています。 幼名は 万吉(まんきち)。

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この最初の転機で、細川藤孝は義昭を見限り、織田信長を主君とする。
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toc-content, sidebar-menu-content. たとえば天正4年10月、兼見は藤孝が三条西実枝よりうけた古今伝授のうち、『日本書紀』神代巻の不審に答えるため、勝龍寺城へ赴いています 天正4年10月27日条。 そして憎いことに、田辺城から古今伝授の資料と歌道の貴重な資料などをすべて八条宮と後陽成天皇宛に送っている。 その上、藤孝と明智光秀とは足利義昭を15代将軍とし、その後は織田信長の家臣として苦楽を共にした仲。

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その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。 2020年8月9日閲覧。